伊八が目指すもの

伊八が目指すもの

アジアには、数えきれないほど多くのブルワリーがある。
けれども「ファームブルワリー」と呼べる場所は、ほんのわずかだ。

今、私たちがスーパーやコンビニで手にするほとんどのビールは、
はるか遠くの国から運ばれてきたモルトでつくられている。

モルトとは、穀物――多くの場合は大麦――を発芽させ、
発酵を止めるために加熱し、香ばしさを生み出すために焙燥したもの。
この工程は、酵素を呼び覚まし、
やがて酵母がでんぷんやたんぱく質を
ビールへと変えるための準備を整える。

麦、米、小麦、ライ麦――どの穀物もモルトにできるが、
「生のまま」では難しい。
酵素が足りず、たんぱく質が粘りすぎるからだ。
だから、現代のビール造りはモルトから始まる。

日本のブルワリーの多くは、
北米やヨーロッパからモルトを輸入している。
現地で育てられた穀物がモルトに加工され、
海を越えて日本に届き、
さらにそこで「ビール」という新たな価値へと姿を変える。

けれども、伊八は違う道を選ぶ。
私たちは、この夷隅の谷に価値の流れを取り戻したい。

冷たい春の土に苗を差し、
夏の日差しの下で穂の波を見守り、
九月の陽に汗を流して稲を干す。
この手で乾かし、この空で香りを深め、
農の命をこの谷に残したい。

そして次に待つのは、最も難しい挑戦――
「生の穀物」でビールを醸すことだ。

だからこそ、人には知恵が与えられた。
科学は神々の贈りものだ。
自然の恵みを、より深く生かすために。

伊八醸造庵は、谷そのものを研究所とする。
酵母と麹の力を解き放ち、
この土地の農を、世界に届く味へと変えていく。

私たちの約束は一つ。
すべては農に根ざすこと。

見渡せば、枝いっぱいに実をつけた柿の木が、
誰にも収穫されずに残っている。
少し形の悪い梨が、行き場を失っている。
その「欠けた実」から、
完璧な発酵の恵みを生み出したい。

二百年前、波の伊八がこの地から世界を驚かせたように、
私たちもまた、この谷から新しい価値を発信したい。

ベルギーの修道院の発酵、
ドイツの精緻な技、
フランスのワインやシードルが語るテロワール、
アメリカの自由な創造、
イギリスのカスク文化――
それらの知恵を、日本の伝統と交わらせる。
酒造りの精神を胸に、
この地に「ヘリテージ・ブリュー」を生み出す。

季節の巡りが、私たちの仕事のリズムだ。

桜と新緑が、春の仕込みを告げる。
梅雨の恵みが「恵みの雨ピルスナー」となる。
新米とフレッシュホップが、秋を「房総族IPA」で彩る。
冬の夜には、闇を抱くような黒いビール「猪の神」を。

収穫も醸造も、終わりではない。

ベトナムのセブンブリッジズで学んだように、
私たちは「ゼロ・ウェイスト醸造」を継承する。
濁ったビールを捨てるのではなく、
それを酢に変え、ソースやピクルス、マスタードへと再生する。

伊八でも、同じ思想を貫く。
麦芽粕や果実の皮、
すべての副産物に次の命を与える。
パン職人のための穀粉、
農家のための飼料、
土を癒す堆肥――。
谷の中に循環をつくり、
小さな工房や新しい挑戦者が生まれる場所にしたい。

そしてもう一つ、
伊八はこの地の「アグリツーリズム」の入口にもなる。
サステナブルな営みと人の温かさが、
訪れる人を惹きつけるだろう。
この谷に心を寄せ、
家族を育て、新しい仕事を始める人たちが、
きっと現れる。

伊八醸造庵は、
この土地の恵みを、再び息づかせるための場所。
農と発酵、
自然と科学、
人と未来を結ぶ、小さな橋でありたい。

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